8月6日原爆の日、広島湾に浮かぶバウムクーヘン発祥の地、似島に行ってきた。

広島市内の島としては最も大きい似島。広島港の南、約3kmにあり、人口は約1100人、1日13往復運航のカーフェリーは似島港と広島港とを約20分往復し、1日11往復運航の高速船は似島学園前桟橋と広島市営桟橋を約15分で往復しています。島内にはバスやタクシーはありませんがレンタサイクルがありました。外周道路の半分は車両の通行ができなく、信号機はありません。安芸小富士と呼ばれる山(標高278m)があり、広島市街や広島湾岸からも望むことができる。市内の中区富士見町は、この安芸小富士が綺麗に見えるところから、その名が付いたといわれてます。天然の砂浜と干潟があり広島名産の牡蠣筏があり養殖が盛んのようでした。


似島は1895年(明治28年)から第二次世界大戦終了直後まで陸軍の似島検疫所が置かれており、現在でも当時の軍事施設の遺構が多数残っています。

1945年(昭和20年)8月6日原爆投下直後、検疫所は臨時野戦病院となり、20日間に約1万人の負傷者が広島から搬送されました。似島で亡くなった多くの人が埋葬され、その遺骨が戦後発掘されています。負傷者が似島に最初に到着したのは、8月6日原爆投下2時間後、午前10時ころだそうです。検疫所では、臨時野戦病院を開設し、受け入れ準備をしていましたが、その数と惨状は予想をはるかに超えるものでした。昼前には江田島の船舶練習部第十教育隊から100人、夕方には宇品と金輪島の野戦船舶本廠より100人を増員して救護を行いましたが、負傷者の多さに、夜には1,000人の患者が似島からさらに別の収容所に移されるありさまでした。 薬や衛生材料はすぐに底をつき、十分な手当ては困難な状況でした。傷にはハエがたかり、ウジがわき、動けない人々を苦しめました。皮下出血による紫斑や歯茎からの出血、高熱、脱毛など放射線の急性障害が現れ始め、亡くなる人が相次ぎました。負傷者が似島に搬送されたことを知り、多くの人が家族や知人を捜して似島を訪れました。服も焼けて、見分けのつかない負傷者の中を、「○○町の××はいませんか?」と呼ぶ声が、病棟に響いてたそうです。 収容者は上陸の途端に、あるいはその日のうちから続々と死亡していきました。しかし、途切れなく運ばれてくる死傷者の収容作業に追われ放しで、死体を処理することまでは到底できませんでした。遺体は一カ所に山積みされたままでしたが、救護部隊の到着で、やっと手がつけられ始めました。遺品などを調べて氏名を確認しました。
構内のタコ壷式防空壕を仮仮葬場に急転用し、薪を集めて死体を積み重ね、それに重油をかけて荼毘に付しました。次から次へと強行作業で死体を積み上げて、何回も繰り返して焼いたが、間に合わなくなりました。その結果、横穴壕に死体を運び入れ、とりあえず土をかけて置いたので、壕の入り口では毎夜リンが燃えていました。 病院が開設された8月6日から25日までの間、約1万人の患者を似島検疫所で受け入れたと推定されています。


日露戦争第一次世界大戦当時は検疫所内に捕虜収容所も併設された。第一次大戦時に収容されていたドイツ人捕虜カール・ユーハイムが、収容中に日本初のバウムクーヘンを焼いたというエピソードがあり、日本におけるバウムクーヘン発祥の地といわれる。ドイツ菓子の王様バウムクーヘンで有名な洋菓子ユーハイムは、日本で初めて焼いたユーハイムの創始者、カール・ユーハイムでした。中国・青島で菓子店を経営していたカールは、第一次世界大戦で進軍した日本軍に強制連行され、多くのドイツ人とともに似島に収容されていました。広島物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開かれた似島収容所浮虜製作品展覧会に、カールがバウムクーヘンを出品したのは、1919年のこと。樫の木を芯棒にして手でまわしながら生地を掛けていくという非常に手間と時間のかかる製法でした。カールはドイツ人としての誇りとお菓子への情熱を一層一層に込めて焼き上げました。それが日本最初のバウムクーヘンです。そのしっとりとしたおいしさは、会場を訪れた日本人を驚かせ、アッという間に売り切れてしまいました。俘虜解放後、カールは日本で菓子店を開店。店頭にいつもディスプレイされたバウムクーヘンは当時「ピラミッドケーキ」と呼ばれ、カールがお客様の注文に応じて物差しも使わずに正確に切り分けて売っていました。1960年代に入るとその名は「ピラミッドケーキ」から「バウムクーヘン」に改められて一般的に知られるようになったそうです。

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